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賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)地図
*賤ヶ岳の戦い

山崎の戦い(やまさきのたたかい)で明智光秀を打ち破った羽柴秀吉は、織田家の後継者を決める清洲会議(1582年10月)において信長の嫡孫である三法師(信長の嫡男信忠の子)を擁立!丹羽長秀、池田恒興を味方につけ、ライバルである柴田勝家が推す織田信孝(信長の三男)を退け、三法師を織田家の後継者とするのです。


秀吉にまんまとしてやられた勝家は巻き返しをはかり、織田家中は秀吉派と勝家派に分かれ対立を深めていきます。勝家の居城越前北の庄城は冬の間深い雪に閉ざされるため身動きがとれない状況にありました。この隙をついた秀吉は、勝家に味方する近江、伊勢方面の武将を攻めたて有利な状況をつくりあげます。


業を煮やした勝家は1583年3月およそ3万の軍勢を率いて出陣!近江に進軍します。これに対し秀吉も5万の兵をもって近江に進出し賤ヶ岳で勝家軍と対峙!こう着状態となります。両軍がにらみ合う中、4月16日になると秀吉のもとに織田信孝挙兵の知らせが届きます。


織田信孝は清洲会議後に岐阜城を与えられます。しかし、勝家方であったため秀吉の攻撃を受け降伏し秀吉方となっていましたが、勝家が挙兵するとこれに呼応して秀吉に反旗を翻したのです。


秀吉は信孝を討つべく15000の兵を率いて岐阜城へ向かいます。秀吉の離脱により賤ヶ岳の守りが手薄になった羽柴軍に対し、柴田軍の佐久間盛政が攻撃をしかけます。4月19日余呉湖を迂回して秀吉方の武将中川清秀が守る大岩山を急襲!


鬼玄蕃と呼ばれた猛将佐久間盛政の激しい攻撃に中川清秀が討たれ中川隊は総崩れとなります。勢いに乗った佐久間隊は岩崎山に陣取っていた高山右近の部隊にも攻撃をしかけます。これをみた勝家は攻撃を中止して戻るよう命じますが、盛政はこれを無視して敵陣深くまで侵攻してしまうのです。

賤ヶ岳合戦図屏風(しずがたけがっせんずびょうぶ)
*賤ヶ岳合戦図屏風 賤ヶ岳七本槍

そのときです!盛政の眼前に信じられない光景が映りました!岐阜にいるはずの羽柴秀吉が軍勢を整え賤ヶ岳に戻ってきたのです。盛政は秀吉の軍勢が戻ってくるのはどんなに早くても明日以降でありそれまでに賤ヶ岳を制圧し有利な状況をつくっておく算段でした。


しかし、盛政の考えよりもはるかに早く秀吉は戻ってきたのです。実は、岐阜に向かったのは柴田軍を誘い出すための計略で、柴田軍が動けばすぐに引き返しこれを討つ作戦だったのです。


岐阜に進軍した秀吉は大垣城で事態を静観し、柴田軍が動き大岩山を占領したとの報告を受けるとただちに軍を引き返し賤ヶ岳へ向けて疾走します。賤ヶ岳へ向かう街道には松明が焚かれ、炊き出しをおこない兵士たちは握り飯を食べながら街道を駆け抜けていきます。


およそ50キロの道のりをわずか5時間で走破したのです。まさに中国大返しの再現!動揺した佐久間隊に秀吉軍が襲い掛かり佐久間隊は危機的な状況に陥りますが、柴田勝政が救援に向かい秀吉軍と激闘を展開します。


しかし、兵力で上回る秀吉軍の攻撃に対し次第に疲弊していく柴田軍!劣勢に立たされた柴田軍にさらに追い討ちをかける事態が発生します!味方の前田利家隊が突如戦線から離脱したのです。さらに金森長近、不破勝光も離脱をする状況となり、これをみた柴田軍の兵士に動揺が走り脱走が相次ぎます。


ついに柴田軍は総崩れとなり勝家は北の庄城に退却!勝家は城に火を放ち妻であるお市の方とともに自刃して果てます。佐久間盛政は越前で捕らえられ秀吉のもとに引き出されます。盛政の武勇を惜しんだ秀吉は自分の家臣になるよう説得しますが、盛政はこれを拒否して山城国槙島で斬首となります。


最大のライバルであった柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、織田家中随一の実力者となり、天下を統一すべく四国、九州への侵攻を開始するのです。