大坂城築城と黒田官兵衛
1583年4月柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉は、織田信長の後継者としての地位を着実に固め、9月になると大坂城の築城に着手します。
大坂の地は本願寺8世蓮如が1496年に坊を建立して以降石山本願寺の勢力下にありました。石山本願寺は細川氏などとの抗争を繰り返す中で、堀や土塁を築き寺を城郭化していきます。
第十一世顕如(けんにょ)の時代に最盛期を迎えた本願寺は天下布武を掲げる織田信長と対立をします。堅牢な石山本願寺に籠もり信長と10年に渡り抗争を繰り広げますが、1580年正親町天皇の仲裁によって和議が締結され、顕如は紀州へ移ります。
信長は大坂を直轄地とし丹羽長秀と織田信澄(津田信澄)を城番に任命します。織田信澄は信長の弟信行の嫡男ですが、明智光秀の娘婿であったため、本能寺の変が起きると光秀との共謀を疑われ丹羽長秀と織田信孝によって殺害されました。
清洲会議において大坂は池田恒興(いけだつねおき)に与えられますが、秀吉は恒興を美濃大垣に国替えして大坂を直轄領とします。
1583年9月秀吉は大坂城の築城にとりかかり、普請総奉行に浅野長政、縄張(なわばり)を黒田官兵衛が担当します。縄張りとは堀や土塁、虎口、曲輪、櫓、門などの配置を決める城づくりにとって重要な工程です。
官兵衛はのちに中津城、高松城、広島城、名護屋城、福岡城の築城に関与したことから、築城の名手とも呼ばれます。大坂城築城以前に姫路城の改修を担当したことからその実績が評価され大坂城の縄張りを任されたのでしょうか(大坂城の縄張りは蜂須賀正勝(蜂須賀小六)が行ったとする説もあります)
1585年に本丸が完成し、1586年から二の丸の普請が行われます。このときの普請総奉行には秀吉の弟秀長が任命されます。二の丸が1587年に完成するとその後何度も改修工事が行われ、1594年には惣構(そうがまえ)となります(城下にある町や屋敷を土塁や堀で囲み防御力を高める)1598年には三の丸もつくられようやく完成します。
*大坂夏の陣図屏風
秀吉の築いた大坂城は難攻不落と呼ばれ、大坂冬の陣では徳川方の大軍(20万)に囲まれても落城しませんでした。徳川方は和議を結び堀を埋めたて裸城にしたのち、夏の陣でようやく落城させることに成功したのです。