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豊臣秀吉の大坂城 中井家本丸図

中井家本丸図 豊臣秀吉の大坂城
*中井家本丸図

豊臣家の権力の象徴であった大坂城は大坂夏の陣で炎上消失します。秀吉時代の大坂城については、黒田家が所有していた*「大坂夏の陣図屏風」などいくつかの絵図によってその姿を知ることができますが、詳細なデータはわからないままでした。


1959年(昭和34年)に行われた大阪城学術調査において新事実が判明します!現在の本丸は10mもの盛り土の上に建てられたものであり、徳川時代以前の石垣と思われる遺構が土中から発見されたのです。


さらに、1960年(昭和35年)東京の中井家で図が発見されます。「大坂御城小指図か不審ノ所々可相改」と上書きされた2枚の図には、お城の本丸と内堀が描かれ、建物の名前、石垣の高さや長さが書き込まれていました。


中井家の先祖 中井正清(なかいまさきよ)は徳川幕府の初代京都大工頭であっため、発見された図は徳川時代の大坂城を描いたものであると思われましたが、縄張りが徳川時代の大坂城とは異なるため専門家が調査したところ、秀吉時代の大坂城であるとの結論に至ります。


正清の父 中井正吉(なかいまさよし)は法隆寺の宮大工でしたが、秀吉の大坂城築城に参加(大工頭だったとする説もあり)していたことが判明したのです。


発見された図は、1583年から開始された築城工事の際に正吉によって作成されたものである可能性が高くなりました。豊臣時代の大坂城を描いた一級史料となり「中井家本丸図」と呼ばれるようになります。


大阪城学術調査と「中井家本丸図」の発見により、豊臣時代の大坂城本丸は徳川によって土中に埋められ、その上に新たに徳川の大坂城が築かれたことが確実になったのです。


「中井家本丸図」により豊臣時代の大坂城本丸の姿はわかってきたのですが、天守の構造はどうなっていたのでしょうか?秀吉は大坂城が完成すると、諸大名や宣教師を大坂城に招き内部を案内しているのですが、そのときの様子を記録した史料が残っています。


また「大坂夏の陣図屏風」など大坂城天守を描いた史料も存在していることから大坂城天守の姿がおぼろげにわかってきました。史料によって若干の相違点はあるものの、大坂城天守は地下二階、地上六階の8階建てであったようです。


入母屋造りの上に望楼を載せた「望楼型」といわれる構造で、外壁は黒漆で塗装され、最上階の壁には鶴と虎が描かれ金箔が施されていました。地下には武器庫があり、二階と最上階部分には来客用の休憩室がありました。


◆徳川時代の大坂城

夏の陣で消失した大坂城は徳川家により再建されます。城全体の規模は縮小されますが、秀吉の大坂城よりも石垣を高くし堀を大きくします。石垣を含む天守の高さは豊臣時代がおよそ40mなのに対し徳川時代は60m弱もありました。


徳川の力を天下に示すため、秀吉の大坂城よりも立派な天守を建てる必要があったのです。藤堂高虎(とうどうたかとら)が縄張りおよび普請総奉行、戸田氏鉄(とだうじかね)が普請奉行に任命されます。


普請は西国の諸大名に命じ1620年から29年まで、あしかけ10年にわたり工事が行われました。その後、1665年に落雷によって天守は焼失し、以降大坂城は天守なしの城となります。


徳川時代の大坂城に関しては「大坂御天守指図」「大坂城内旧御殿写」「大坂城本丸御殿建物図」などの史料が存在しています。


◆昭和の大阪城
1931年に大阪市によって天守が復建されます。このとき再建された大坂城は「大坂夏の陣図屏風」を参考につくられ、徳川時代の石垣の上に豊臣時代の天守が再現されました。


*大坂夏の陣図屏風(おおさかなつのじんずびょうぶ)
「大坂夏の陣図屏風」は黒田長政が家臣の黒田一成に命じて作らせた屏風です。六曲一双(六つ折りで左右で1セット)の屏風で、人物5071人、馬348頭が登場する大作です。


右隻(うせき)は大坂城の天守と本丸、内堀とその周辺で東西両軍が戦っている姿を描き、左隻(させき)は敗残兵を討とうとする雑兵、逃げ惑う町人や農民、女性に襲い掛かる野盗の姿が描かれています。


豊臣時代の大坂城を知ることのできる一級の史料で、国の重要文化財に指定されています(大阪城天守閣蔵)

大坂夏の陣図屏風(おおさかなつのじんずびょうぶ)
*大坂夏の陣図屏風