1583年4月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は居城 北の庄城で自刃します。
勝家とともに挙兵した織田信長の三男信孝は、秀吉と手を組んだ兄の信雄によって攻込まれます。
居城である岐阜城を大軍で包囲された信孝は戦意を喪失して秀吉に降伏します。尾張国の大御堂寺に送られた信孝は秀吉の命令で自害させられるのです(犬猿の仲であった信雄が信孝に自刃を迫ったとする説もあります)
さらに、勝家の挙兵に呼応した滝川一益の長島城を攻めこれを落城させます。一益は蟄居を命じられます(のちに復帰して小牧・長久手の戦いで功績をあげ息子の一時が1万2000石を与えられます)
着実に勢力を拡大する秀吉に対し危機感を持った織田信雄は、徳川家康に近づき秀吉と敵対!秀吉軍と信雄・家康連合軍が小牧山でにらみ合う展開となります。
この動きに対して秀吉と敵対していた根来衆(ねごろしゅう)と雑賀衆(さいがしゅう)が兵をあげます。根来衆は紀伊国根来寺周辺に勢力を持った僧兵の集団で、雑賀衆は紀伊国雑賀荘を中心とする地域に住んでいた人びとが組織した武装集団です。
根来・雑賀衆は数千丁の鉄砲を保有しており高い武力を有していました。秀吉はあらかじめ*中村一氏(なかむらかずうじ)を岸和田城主にして根来・雑賀衆に備えていました。
毛利との国境確定交渉(中国国分)を任されていた黒田官兵衛と蜂須賀正勝は、それぞれ自分の息子黒田長政と蜂須賀家政に兵を与え秀吉軍に参陣させていました。
1584年3月根来・雑賀衆を中心とする大軍(2万とする説あり)が岸和田城を取り囲みます。激しい攻撃を受けた岸和田城では、中村一氏を中心によく防ぎ一進一退の攻防を繰り広げます。
秀吉は黒田長政、蜂須賀家政を援軍として送り、根来・雑賀衆の撃退に成功します。この戦いで長政は敵の首を討ち大きな手柄をあげます。「黒田家文書」には、岸和田合戦における長政の活躍に喜んだ秀吉が2000石を与えたという内容が記されています。
*中村一氏(なかむらかずうじ)
羽柴秀吉家臣。のちの豊臣政権で三中老となる(中村一氏、堀尾吉晴、生駒親正)
岸和田城主(3万石)→水口岡山城主(6万石)→駿府城主(14万石)
関ヶ原の戦いでは家康に味方するも直前に死去。
嫡男一忠(かずただ)に伯耆国米子17万5000石が与えられるも、一忠は20歳で急死!お家断絶となる。