長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、土佐の国人領主 長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)の嫡男として1539年に誕生します。1534年生まれの織田信長より5歳年下、1537年生まれの豊臣秀吉より2歳年下ということになります。
室町時代 土佐国、讃岐国、阿波国は管領の細川氏が、伊予国は河野氏がそれぞれ守護をつとめ領地を治めていました。応仁の乱で東軍の総大将となった細川氏は、10年にもおよぶ戦いの中で疲弊し支配力が低下します。
衰退する細川氏にかわって力をつけた国人領主たちが自らの領土を拡張するため争いを繰り返す戦国時代へと突入したのです。土佐国では、応仁の乱を避け京から一条氏が避難をしてきました。
土佐の西端には一条氏の荘園があり土着して国人領主となります。一条氏は関白までつとめたことのある名門で、やがて土佐の国人衆をまとめる立場となります。
一条氏の他には長宗我部、香宗我部、本山、吉良、大平、安芸、津野などの国人が力を持っていました。元親の祖父兼序(かねつぐ)のとき長宗我部氏に最大の危機が訪れます。
兼序に反感を持つ本山、吉良、大平らの国人衆によって居城 岡豊城(おこうじょう)が攻撃され兼序が自害に追い込まれるのです。兼序は落城寸前に嫡男千雄丸を逃がしていたため一族の滅亡は避けることができたものの、この事件で長宗我部氏は没落します。
千雄丸は一条氏に保護されやがて元服して国親(くにちか)を名乗ります(一条氏ではなく他の国人に保護されたという説もあります)
一条氏のとりなしで岡豊城に戻ることができた国親は、父 兼序を自害に追い込んだ宿敵本山清茂の嫡男茂辰に自分の娘を嫁がせ休戦状態にします。この間に領地の経営に専念して力を蓄えると、周辺の土豪や国人を取り込み徐々に勢力を広げていくのです。
*戦国時代 土佐国勢力図
国親は本山清茂が死去すると対決する覚悟を決め、本山氏の長浜城を攻めこれを落とします。本山茂辰は2千の兵を率いて出陣!国親も1千の兵でこれを迎え撃ち激しい戦いが行われます(長浜の戦い)
この戦は元親の初陣でもあります。元親は幼少の頃おとなしい性格で、背が高く色白であったため「姫若子 ひめわこ」と呼ばれていました。父の国親は長宗我部家の跡取りになれるか大変心配したそうです。
その元親がこの長浜の戦いでは槍を持ち突撃して敵陣を切り崩すという大活躍を見せます。この奮闘により元親は「土佐の出来人」と呼ばれるようになり家臣からも信頼されるのです。
本山氏との抗争が続く中、国親が病で死去すると元親は家督を相続しさらに攻勢を強めます。茂辰を降伏させ傘下に組み込んだ元親は、土佐の東部に勢力を持つ安芸氏の領土に攻込みます。
1569年7月 八流で両軍が対決!元親は軍を二手に分け安芸軍を挟み撃ちにしてこれを撃破!安芸国虎を自害させ土佐東部を手中に収めるのです。土佐の中央部と東部を手に入れた元親の次の標的は西部に勢力を持つ一条氏となります。
土佐の国人衆の中では別格の存在であった一条氏ですが、当主の一条兼定は国政に興味を示さず家臣たちには揉め事が絶えない状態でした。1574年には兼定が家臣によって追放されるという事件が起こります。
兼定の子 内政(ただまさ)が家督を継ぎますが、この内紛に乗じて元親は一条家の執政に介入するようになります。一条家家臣の中には元親の介入に反対する者もいましたが、元親はこれらの勢力を排除してやがて実権を掌握します。
1575年には追放された兼定が伊予の国人衆の力を借りおよそ4千の軍勢を率いて土佐に侵攻してきました。元親は7千の兵でこれを迎え撃ち「渡川の戦い」で勝利し兼定の勢力を土佐から駆逐します。
1581年長宗我部家で起こった内紛に加担したとして、一条内政を伊予国に追放し元親は土佐を統一するのです。