1575年渡川の戦いで一条兼定の勢力を土佐から駆逐!土佐を手中に収めた長宗我部元親は、阿波国、讃岐国、伊予国へと兵を進め四国の統一に乗り出します。
室町時代から戦国時代にかけて阿波国、讃岐国、土佐国は管領の細川氏が守護をつとめていましたが、応仁の乱以降細川氏の勢力が衰退すると阿波国では細川氏の家臣であった三好氏が力をつけ領国を支配していました。
讃岐国では守護代であった香川氏が西部を治め、三好氏の一族である十河氏が東部を支配していました。伊予国では守護である河野氏の力が衰え河野氏、西園寺氏、金子氏の勢力が争いを繰り広げていました。
■阿波国
元親は治世の安定しない隣国阿波に侵攻します。阿波国の守護は細川真之(ほそかわさねゆき)でしたが、実質上阿波を支配していたのは家臣の三好長治でした。
長治の強権的な政治に家臣、領民は不満を持っていたため、元親は細川真之に近づき長治の追い落としにかかります。劣勢に立たされた長治は1577年細川真之打倒の兵を挙げますが敗れ自害!(荒田野の戦い)
当主長治を失った三好家では、讃岐国東部を支配していた長治の弟十河存保(そごうまさやす)を新たに当主として迎え勢力の回復をはかりますが、1582年中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)で元親に敗れ阿波国の大半を失うことになります。
■讃岐国
荒田野の戦いで三好長治を自害に追い込んだ元親は。翌年になると讃岐国にも侵攻を開始します。
讃岐西部を統治していた香川氏は元親の勢いに押され劣勢に立たされると元親に和睦を申し入れ元親の次男親和(ちかかず)を娘婿に迎えるのです。
香川氏を配下にした元親は、羽床氏、長尾氏、香西氏など讃岐国中部の国人衆の城を攻めこれを降伏させると十河氏が治める東部へと侵攻します。
十河存保(そごうまさやす)は、兄である三好長治自害後に三好家を継ぎ阿波国勝瑞城(しょうずいじょう)で元親と敵対していました。
十河氏の居城十河城(そごうじょう)は一族の十河存之(そごう まさゆき)が城代をつとめていました。1582年中富川の戦いで十河存保が元親に敗れると存保は阿波国から撤退し讃岐の虎丸城(とらまるじょう)に引き上げます。
十河城は元親の大軍に包囲されますが、何とか守り抜き一度は長宗我部軍を撤退させますが、1584年に再び攻込まれ落城!虎丸城も落とされ存保と存之は秀吉を頼り落ち延びます(虎丸城は落城せず十河存之は城に籠もり交戦を続けたとする説もあります)
■伊予国
元親は家臣久武親信(ひさたけちかのぶ)を司令官とする軍勢を派遣して伊予国の攻略にとりかかります。久武親信は長宗我部に敵対する国人衆の城を落とします。伊予中央部を支配する河野氏は毛利氏と同盟関係にあり毛利の援軍を得て頑強に抵抗します。
元親は同盟を結んでいた金子元宅(かねこもといえ)の助力を得て侵攻を加速させますが、西園寺氏の反撃にあい久武親信が討死をしてしまうのです。
国人衆の激しい抵抗や毛利の参戦もあり伊予国で苦戦する長宗我部軍!元親は讃岐攻略の兵を伊予に投入して反撃を開始します。
この攻撃に西園寺氏が降伏!1585年には抵抗を続けていた河野氏も降伏して元親は伊予国の制圧に成功するのです(河野氏は降伏しなかったとする説も存在します)
■長宗我部元親は四国を統一したのか?
通説では土佐の統一からわずか10年で四国を統一したとされる長宗我部元親ですが、近年の研究において四国は統一されていなかったとする説が有力になってきました。
阿波国では水軍を擁する土佐泊城(とさどまりじょう)の森村春が抵抗を続けており、讃岐国でも十河存保が虎丸城に籠もり交戦を続けたとする説があります。伊予国では最後まで抵抗を続けていた河野氏が1585年に降伏したとされていますが、河野氏降伏の記述が見られるのは「土佐物語」だけなのです。
「土佐物語」は長宗我部家臣であった吉田重俊の子孫が記した軍記物語で、100年以上も経ってから創作された物語なので内容の信頼性に疑問が持たれています。
以上のようなことから長宗我部元親の四国統一には懐疑的な意見が多いのです。四国の大部分を手中に収めたという表現のほうが正しいのかもしれません。