織田信雄との和睦により、小牧・長久手の戦いに一応の決着をつけた羽柴秀吉は、敵対する根来・雑賀衆を殲滅するため紀州国に侵攻します。
千石堀城、積善寺城など敵対する城を次々落とし、1585年3月23日には根来衆の拠点である根来寺(ねごろじ)に攻め込み降伏させます。戦いの最中に発生した火により根来寺にある多くの建築物が焼失します。
根来寺を落とした秀吉軍は、雑賀衆の籠もる城や砦を攻略しておよそ一ヶ月で雑賀衆の勢力を一掃します。紀州国を制圧した秀吉は四国の長宗我部を攻める準備にとりかかるのです。
土佐の戦国大名 長宗我部元親は、本能寺の変後に起こった織田家中の跡目争いの混乱に乗じて勢力を拡大します。讃岐国、阿波国、伊予国に侵攻し、怒涛の攻撃でこれらの国を制圧して勢力下に治めます。
四国の大半を手にした元親に対し秀吉は讃岐国と伊予国を差し出すよう命じますが、元親はこの要求を拒否します。業を煮やした秀吉は弟秀長を総大将とする軍勢を四国に向かわせます。
総大将 羽柴秀長 3万
副将 三好秀次 3万
小早川隆景、吉川元長 3万
宇喜多秀家、黒田官兵衛、蜂須賀正勝、仙石秀久、小西行長 2万5千
総勢11万を超える大軍を3隊に分け四国に上陸します。
これに対し長宗我部元親は四国の中心にある白地城を拠点にして秀吉軍を迎え撃つ体勢を整えます。
羽柴秀長と三好秀次の軍勢およそ6万は阿波国土佐泊に上陸します。土佐泊城主の森村春は瀬戸内海一帯に勢力を持った海賊であり強固な水軍を擁していました。
阿波国に侵攻した長宗我部元親も落とすことができなかった城が土佐泊城だったのです。森村春は秀長軍を出迎え、以後秀長軍の阿波侵攻の先導役を担うことになります。
小早川隆景と吉川元長率いる毛利の部隊は伊予国今治に上陸後、伊予における長宗我部方の主力である金子元宅(かねこもといえ)の金子城、高尾城の攻略にとりかかります。
決死の覚悟で迎え撃つ城兵の抵抗にあいながらも圧倒的な兵力の差に力攻めを行い7月14日に金子城、17日には高尾城を落城させ金子元宅は自害をして果てます。
宇喜多秀家、黒田官兵衛、蜂須賀正勝の部隊は讃岐国屋島に上陸後、長宗我部方の喜岡城を落とし植田城に向かいます。
植田城を偵察した官兵衛は「このような城を落としたところで何の意味もない。元親の本隊がいる阿波に行き秀長隊と合流して阿波を制圧すればこの城も自然と落ちる」と進言します。
この官兵衛の意見を受け入れた秀家は植田城を攻めずに阿波へと進軍します。実はこの植田城は長宗我部元親が秀吉軍を誘い込むために建てた囮の城であり、秀吉軍が城攻めを行えば周辺の狭所に誘い込み、出撃した元親の軍が挟み撃ちにする作戦だったのです。
難を逃れた宇喜多秀家、黒田官兵衛の部隊は阿波国に入り秀長隊と合流して木津城を攻めに加わります。秀長は8万5千という圧倒的な兵力にものをいわせ力攻めを行いますが、城主東条関兵衛を中心に守りを固める城兵の抵抗にあい苦戦を強いられます。
仙石秀久は山城である木津城の弱点は飲料水であり、水の手を断つ作戦を秀長に進言しこれを実行します。水源をおさえられた木津城では飲み水が不足し城兵の士気は低下!東条関兵衛は降伏し木津城は開城するのです。
木津城を落とした秀長は軍勢を分け一宮城、脇城、岩倉城の攻略にとりかかります。秀長軍は一宮城、秀次軍は脇城、岩倉城を担当し官兵衛は秀次軍の軍監となります。
官兵衛は岩倉城攻めにおいて「この城は堅牢であり兵の士気も高く攻めづらいので謀(はかりごと)で落とすほうがよいでしょう」と進言します。
官兵衛は城の周囲に城内を見渡せる櫓を組み、日に3度鬨の声(ときのこえ)をあげ鉄砲を撃ちかけたのです。4万を超える大軍の雄たけびは守備兵の士気を徐々に低下させます。櫓からその様子を見ていた官兵衛は頃合を見計らい降伏を勧告し岩倉城を開城させることに成功したのです。
四国攻めで一番の激戦となったのが一宮城の戦いです。元親の信任厚い江村親俊と谷忠澄が守る一宮城は天然の要害と呼べる山城で、決死の覚悟をもった兵9千が籠城していました。
秀長軍およそ5万は何度も攻めかかりますが、その度に反撃を受け味方の損害も大きくなりました。長期戦を覚悟した秀長は木津城と同じく水の手を断つ作戦にでて城兵が疲弊するのを待ちようやく開城させたのです。
一宮城が落ちたことでついに元親も降伏を決意します。元親には土佐一国が安堵されます。
阿波国は蜂須賀家政(蜂須賀正勝に与えられますが、正勝は辞退したため息子の家政に阿波国が与えられます)
讃岐国は仙石秀久と十河存保(そごうまさやす)
伊予国は小早川隆景、安国寺恵瓊、加藤嘉明(かとうよしあきら)、来島通総(くるしまみちふさ)
淡路国は脇坂安治(わきさかやすはる)に与えられました。
軍監として参戦した官兵衛にはこれといった恩賞は与えられませんでした。