島津四兄弟とは、島津家15代当主島津貴久(しまづたかひさ)の四人の息子たち、嫡男 義久、次男 義弘、三男 歳久、四男 家久の総称です。
島津氏は秦氏の子孫である惟宗氏出身の忠久を祖とします。忠久は源頼朝から薩摩国、大隅国、日向国の守護職を与えられ、孫の久経の代に九州に下向して島津氏を名乗るようになります。
島津氏は鎌倉時代から江戸時代(幕末)まで南九州で勢力を保持した名門ですが、それゆえ多くの分家が設立されます。一枚岩の結束力!主従が一致団結して事に当たるというイメージが島津氏にはありますが、実際はその長い歴史の中で多くの時間を一族内の勢力争いに費やしています。
久経の孫である貞久の三男 師久の総州家、四男 氏久の奥州家が設立され対立!やがて奥州家が島津宗家となり総州家は断絶します。その後も相州家、伊作家、薩州家、豊州家、垂水家、宮之城家、佐土原家、日置家、永吉家などが新設されます。
室町時代末期の伊作家当主忠良はとても優秀な人物で「島津家中興の祖」と呼ばれ、その忠良の嫡男貴久は島津宗家(奥州家)を継ぎ15代当主となります。この貴久が島津四兄弟の父です。
貴久は一族の内乱をおさめ薩摩国を統一!宗家への権力集中をはかり、戦国大名へステップアップするための基盤を作り上げるのです。貴久は家督を嫡男義久に譲ると、義久は優秀な三人の弟とともに屈強な家臣団を統制し大隅国、日向国に侵攻します。
1572年木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)で日向国の伊東氏を駆逐すると大隅国の肝付氏を配下に従え、薩摩国、大隅国、日向国の統一を成し遂げます。
この頃の九州は豊後の大友宗麟(おおともそうりん)肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)薩摩の島津義久の三大勢力が支配領域を広げるための戦いを繰り広げていました。
*戦国時代の九州勢力図
1578年伊東氏の要請を受けた大友宗麟は田原親賢を大将とする3万の軍勢を日向国に送ります。島津勢も四兄弟が一致団結してこれを迎え撃ち耳川の戦い(みみがわのたたかい)で大友軍に大勝します。
この戦いで多くの武将を失った大友氏は以後急速に弱体化し、その間隙を縫って肥前の龍造寺隆信が筑後、筑前、肥前、豊前など大友氏の領地を侵略し勢力を広げていきます。
一方島津も肥後に侵攻し相良氏を屈服させると、龍造寺隆信から離反した有馬晴信の要請を受け肥前国島原半島に出兵することを決定します。しかし、義久はまだ島津に従っていない肥後や肥前の国人への備えのため多くの兵を出せない状況でした。
弟の家久に7千の兵を与え出陣させますが、対する龍造寺隆信は自ら2万5千の兵を率いて有馬氏を討伐するため出陣します。1584年島津・有馬軍8千と龍造寺軍2万5千が島原で激突!圧倒的な兵力差もあり緒戦は龍造寺軍に有利な展開となりますが、家久は湿地帯に龍造寺軍をおびき寄せると、決死の突撃を敢行しこれを粉砕します(沖田畷の戦い おきたなわてのたたかい)
龍造寺軍は隆信が島津家の武将川上忠堅(かわかみただかた)に首を取られ、3千の兵が戦死するなど壊滅的な損害を被り領国へと逃げ帰るのです。この沖田畷の戦いで隆信を失った龍造寺家は嫡男の政家(まさいえ)が跡を継ぎますが、政家は生来病弱で武将としての器も父に及ばなかったことから領地を維持することができず、島津氏に降伏してその配下となります。
勢いに乗った島津四兄弟は、筑前国の秋月氏、肥後国の阿蘇氏をも服従させると南九州をほぼ制圧します。九州統一に向け北九州への侵攻を開始する島津四兄弟の前に関白となった豊臣秀吉が立ちふさがるのです。
四国の長宗我部氏を服従させた秀吉は、1585年10月に九州の大名に対し「惣無事令」を発し大名間の私闘を禁じます。この命令を無視して北九州へ攻め込む島津氏に対し、秀吉は九州征伐を宣言して中国、四国地方の武将に出陣の命を下すのです。