1587年5月九州征伐により島津氏を降伏させた豊臣秀吉は天下統一事業の仕上げとして小田原北条氏と相対することになります。
北条早雲を祖とする小田原北条氏(後北条氏)は早雲ー氏綱ー氏康ー氏政ー氏直と5代にわたり関東一円を支配した戦国大名で、このころの領地は相模国、伊豆国、武蔵国、上野国のほぼ全域、下野国、下総国、上総国の大部分、常陸国、駿河国の一部など、合わせて250万石を超えており、その最大動員兵力は10万ともいわれる戦国屈指の大大名でした。
秀吉は1587年12月関東と奥羽の大名に対し惣無事令を発し私闘を禁じますが、北条氏は上野国の沼田をめぐって真田氏と領土問題を抱えていました。秀吉は沼田領の3分の2を北条に、3分の1を真田に与えるという北条に有利な条件で裁定を行い氏政、氏直の上洛を促します。
この裁定に一度は従った北条でしたが、1589年10月真田方の名胡桃城を攻撃して奪ってしまうという事件を起こします。この一報を聞いた秀吉は激怒!大名間の私闘を禁じた惣無事令違反であり、裁定を無視した行動をとる北条氏に対し小田原征伐(おだわらせいばつ) を決定するのです。
秀吉は東海道を進む主力軍と関東の北側上野国から攻め込む北国軍に分け北条領への侵攻を計画します。主力軍は12隊で編成され、主な大名は以下の通りとなります。
一番隊 徳川家康
二番隊 織田信雄
三番隊 蒲生氏郷、森忠政
四番隊 池田輝政、金森長近
五番隊 豊臣秀次、一柳直末
六番隊 豊臣秀次
七番隊 豊臣秀次、木村重茲
八番隊 堀秀政、大谷吉継
九番隊 細川忠興
十番隊 黒田官兵衛
十一番隊 木下勝俊、前野長康、別所重宗
十二番隊 亀井茲矩、宮部継潤
北国軍の主な大名は以下の通りとなります。
前田利家
上杉景勝
真田昌幸
依田康国
東海道を進む主力軍はおよそ13万、北国軍は3万5千、さらに秀吉の本隊が4万、その他に加藤、九鬼、長宗我部、脇坂、毛利、来島の水軍などを合わせると総勢20万を超える大軍となります。
秀吉は九州征伐で兵糧が不足した経験から、この小田原征伐では事前に大量の米を買占め長期戦も辞さない覚悟で臨んだのです。これに対し北条方では、秀吉の大軍をどのようにして迎え撃つのか小田原城に重臣が集まり話し合いが行われます。
積極的に打って出て野戦において敵を撃退すべきとの意見もでますが、小田原城の守りに絶対の自信を持つ重臣たちは籠城戦で戦うとの結論に至ります。
過去に上杉謙信の大軍や武田信玄の軍勢を撃退した経験から、たとえ秀吉の大軍に囲まれても1-2年は持ちこたえるだけの自信があり、そのための武器や兵糧なども備蓄していたのです。秀吉の軍勢は寄せ集めであり、長期戦に持ち込めばやがて兵糧不足に陥り内部分裂すると考えていました。
北条方では主要な城に一族や重臣、信頼のおける国人を配置して守りを固め、裏切り者がでないよう城主の家族を人質として小田原城内に集めます。
北条氏照 八王子城
北条氏房 岩付城
北条氏邦 鉢形城
北条氏規 韮山城
北条氏勝 玉縄城
北条氏忠 新城
大道寺政繁 河越城
大道寺政繁 松井田城
松田康長 山中城
成田氏長 忍城
上杉氏憲 深谷城
上杉憲定 松山城
内藤綱秀 津久井城
清水康英 下田城
遠山景政 江戸城
武田豊信 長南城
千葉直重 佐倉城
原邦房 臼井城
*小田原征伐 戦国時代地図(関東の主な城)
1590年3月29日 秀吉軍の主力部隊が戦略上の要地である伊豆国の山中城と韮山城の攻略を開始します。秀吉軍は徳川家康、豊臣秀次、堀秀政・池田輝政などの諸隊およそ6万5千の軍勢が山中城を攻撃!
山中城の守備兵は、城主 松田康長の他に間宮康俊、北条一門の氏勝が応援として城内に籠りおよそ4千の兵力で応戦します。豊臣秀次隊の中村一氏、一柳直末、山内一豊らが間宮康俊の守る砦を攻撃して激戦を展開します。
守備兵の激しい抵抗を受け一柳直末が討死しますが、ひるむことなく襲い掛かる大軍に間宮康俊ら守備兵は全滅!砦が落とされると、三の丸、二の丸が占領され、松田康長は氏勝を城外に逃がすと残った兵とともに激しく戦い討死を遂げます。
一方、織田信雄を総大将とする総勢4万5千の兵は北条氏規の韮山城を攻めます。織田信雄、蜂須賀家政、生駒親正、福島正則、蒲生氏郷、細川忠興、中川秀政、森忠政らの軍勢は3隊に分かれて一斉に攻撃をしかけますが、守備兵の激しい抵抗を受け多数の犠牲者を出します。
戦上手の氏規を中心に団結したおよそ4千の城兵は士気も高く、これ以上力攻めにすればさらに多くの兵を失うと考えた秀吉軍は城を包囲して持久戦に持ち込みます。福島正則、蜂須賀家政など一部の兵を残し、その他の兵は小田原に向かい進軍することになったのです。
山中城を落とした秀吉軍は、鷹之巣城、足柄城も攻略して箱根山を突破!小田原城を包囲するための準備にとりかかります。
*小田原征伐
前田利家を総大将とする北国軍は上野国にある北条方の城の攻略にとりかかります。まず最初の標的となった城が松井田城です。北条方でもこの松井田城を戦略上の要地とみなし重臣の大道寺政繁を城主に置き2千人の兵を配置していました。
北国軍は松井田城を取り囲むとともに周辺の城にも軍勢を向け攻略を開始します。3月19日になると北国軍は松井田城に総攻撃をかけ翌月の20日には大道寺政繁が降伏!西牧城、国峰城、厩橋城、箕輪城、石倉城など周辺の城も次々に落ちて短期間で上野国の制圧に成功します。
予想よりも早く上野国を掌中に収めた秀吉は、小田原城の包囲網を広げながら徳川家康に命じて武蔵国の制圧に動きます。徳川隊と秀吉配下の浅野長政隊、木村重茲隊は玉縄城、江戸城を開場させると、
下総国、上総国に進軍して葛西城、佐倉城、鳴門城、東金城、茂原城、大多喜城、勝浦城を攻略します。武蔵国南部、下総国、上総国の北条方の城は、ほとんど抵抗することなく秀吉軍に降伏したのです。
上野国を制圧した前田利家を総大将とする北国軍は武蔵国北部に侵攻して北条方の鉢形城を攻めます。さらに岩槻城を落とした徳川勢の本田忠勝、秀吉勢の浅野長政、木村重茲らが応援に駆けつけ鉢形城への攻撃を開始します。
鉢形城主 北条氏邦は3千の兵でこれを迎え撃ち激戦を展開しますが、圧倒的な兵力の差にしだいに押され多くの兵を失います。前田利家は使者を送り降伏を勧告し、氏邦もこれを受け入れ鉢形城は開城します。
上野国の制圧から鉢形城までいくつもの城を攻略してきた北国軍ですが、そのほとんどが降伏勧告を行い開城させていました。力攻めを行い敵を徹底的に殲滅する手法をとらない利家に対し秀吉は不満を持ち叱責したとされています。
秀吉に批判された利家ら北国軍は次の攻撃目標である八王子城へ向かいます。八王子城は北条氏の重鎮北条氏照の居城ですが、氏照は小田原城で全体の指揮をとっていたため、氏照の家臣 横地監物、狩野一庵らが3000の兵で守っていました。
利家は秀吉の勘気をとくためにも八王子城は是が非でも力攻めで落とす必要がありました。6月23日降伏した大道寺政繁らの兵を先頭におよそ5万の軍勢が一斉攻撃を開始します。八王子城兵らも激しく抵抗し双方に多数の死傷者がでますが、曲輪を次々に落とされた北条方はしだいに追いつめられやがて本丸が占領され、城内にいた婦女子の多くが滝に身を投げます。
八王子城落城の一報を受けた北条氏政、氏直ら小田原城では落胆の色を隠せず城兵の士気も低下します。さらに、6月25日には津久井城が開城、徹底抗戦を続けていた韮山城も6月24日に降伏して北条方の主要な城では忍城(おしじょう)のみが抵抗を続けていました。
忍城の城主である成田氏長は小田原城内で籠城していたため、氏長の家臣ら3千が守備にあたっていました。秀吉軍は石田三成、長束正家、大谷吉継、佐竹義宣、結城晴朝ら2万を超える軍勢が忍城を取り囲み、6月5日から攻撃を開始!力攻めを行いますが、城兵の反撃にあい多くの兵が手傷を負います。
三成は荒川をせき止め水攻めを行いますが、堤防が決壊して270人もの溺死者を出します。秀吉は浅野長政、真田昌幸らの兵を援軍として送りますが、その後も忍城は持ちこたえ小田原城開城後の7月16日に降伏をしたのです。