肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)は、朝鮮出兵のための兵站(へいたん)基地として1592年に築城されました。
豊臣秀吉は小田原征伐により関東の雄 北条氏を滅ぼします。最後まで秀吉に抵抗していた奥羽の伊達政宗も小田原に参陣して服従したことで、東北から九州まで秀吉に対抗できる勢力はいなくなりました。
国内を統一した秀吉の関心は中国(明)へと向かいます。秀吉がいつから海外派兵を考えていたのかよくわかっていませんが、比較的早い段階から意識していたようです。
秀吉は朝鮮国王に対し日本軍の国内通過の許可と明への先導役を依頼しますが、明へ朝貢している朝鮮国王はこの申し出を断ります。激怒した秀吉は「それならば朝鮮を攻めるまで!」と言い放ち、朝鮮出兵の準備にとりかかるのです。
秀吉は兵站基地として肥前国松浦郡に名護屋城を築きます。兵站とは戦争を有利に進めるための支援活動のことです。大軍が海を渡り異国の地で戦闘を続けるには兵士や食料、武器などを定期的に補給する必要があります。
大坂城では満足な活動を行えないため、より朝鮮半島に近い肥前国に拠点活動を作ったのです。秀吉は九州の大名に築城を命じます。加藤清正(かとうきよまさ)、寺沢広高(てらざわひろたか)が普請奉行となり、黒田官兵衛が縄張りをしたと伝えられています。
1591年10月に着工し翌年4月~6月に完成します。朝鮮の役(文禄・慶長の役)はおよそ7年続きますが、秀吉が名護屋城に滞在した期間はわすか1年半程でした。
秀吉の死により朝鮮の役が終結すると、名護屋城は寺沢広高に与えられます。広高は関ヶ原の戦いで東軍側についたため、戦後の論功行賞で加増され唐津藩12万石の初代藩主となります。
秀吉の死後廃城となっていた名護屋城は、広高の居城唐津城築城の際にその一部が建材として使用されます。また、名護屋城の大手門は伊達政宗に与えられ、仙台城の二の丸大手門として再利用されたそうです。
名護屋城が存在した期間は6~7年と短期間であったため史料が乏しく、その姿は謎とされてきました。しかし、昭和43年に肥前名護屋城図屏風が発見されたことにより天守を含む城の全容が判明します。
突貫工事によりわずかな期間で完成した名護屋城ですが、総面積は17万平方メートルもあり、五層七重の天守をもつ本丸と二の丸、三の丸、曲輪で構成され100を超える陣屋が立ち並び、当時としては大坂城に次ぐ規模を誇っていました。
城下町には商人が店をだし、二十万人と言われる人々が居住するようになります。まさに戦争特需に沸いた町だったのです。肥前名護屋城図屏風には、軍事都市として賑わいをみせる名護屋の様子がよく描かれています。
肥前名護屋城図屏風(佐賀県立名護屋城博物館蔵)は、佐賀県の重要文化財に指定されています。