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朝鮮の役(慶長の役)と黒田官兵衛

豊臣秀吉は、文禄の役で16万の軍勢を朝鮮に送ります。戦い当初は朝鮮軍の油断もあり、日本軍の快進撃が続きますが、李舜臣率いる水軍に敗れ制海権を握られるとしだいに劣勢に立たされ深刻な兵糧不足に陥ります。


一方、明や朝鮮も戦慣れした日本軍に手を焼き、朝鮮半島から追い出すことができない状況でした。しだいに両者の間に停戦を望む声が大きくなり、日本側代表 小西行長と明側代表 沈惟敬(しんいけい)の間で和平交渉が始まります。


小西行長は、豊臣秀吉が示した講和七条件を提示しますが、明側にはとうてい受け入れられない条件でありこれを拒絶します。この戦を早く終わらせたいと考える小西行長と沈惟敬は、話し合いの結果、条件をあいまいにしたまま講和を進めることを決定します。


明から送られた正史と対面した秀吉は、自分が示した七条件を明側が何ら受け入れていないことに気づき激怒します。ここに和平交渉は決裂し、秀吉は再び朝鮮に兵を送ることを決めるのです。


沈惟敬は明に帰国後 万暦帝の命で処刑されます。小西行長にも厳しい処分が予想されましたが、石田三成ら奉行衆の弁明によって何とか首がつながったのです。秀吉は小早川秀秋を総大将、毛利秀元を副将に任命して、再び朝鮮半島に兵を送ります(慶長の役)


■慶長の役 部隊編成(総勢14万)
一番隊 加藤清正
二番隊 小西行長
三番隊 黒田長政
四番隊 鍋島直茂
五番隊 島津義弘
六番隊 加藤嘉明
七番隊 蜂須賀家政
八番隊 毛利秀元、 宇喜多秀家
その他 立花宗茂、浅野幸長など


黒田官兵衛は、文禄の役における無断帰国が秀吉の怒りを買い蟄居謹慎処分となっていましたが、1593年7月になると罪を許されます。官兵衛は剃髪と出家を行い名を如水円清と改めました。


官兵衛(如水)は、若い小早川秀秋や毛利秀元を補佐する軍監として朝鮮に渡ることになったのです。


■慶長の役 主な戦い
・巨済島海戦(こぜどかいせん)
文禄の役におけるふがいない戦いぶりを秀吉に叱責された水軍の加藤嘉明、藤堂高虎、脇坂安治は名誉を回復すべく決死の覚悟で戦いに臨みます。

日本水軍を苦しめた李舜臣は、軍内の勢力争いに敗れ降格されていました。李舜臣に代わり朝鮮水軍の大将となった元均に対し、日本水軍は奇襲攻撃をしかけます。

突然の攻撃に混乱する朝鮮水軍は、何とか反撃体制をとりますが時すでに遅く、日本水軍の総攻撃により撃沈されます。巨済島に上陸した元均は、島津隊の攻撃を受け戦死しました。元均の死により李舜臣が再び朝鮮水軍の大将となります。


・南原城の戦い(なんげんじょうのたたかい)
宇喜田秀家、島津義弘、小西行長、蜂須賀家政らおよそ5万の軍勢が、明、朝鮮兵4千の守る南原城を攻め落城させます。


・稷山の戦い(しょくさんのたたかい)
黒田長政隊は稷山近辺で明軍と遭遇し戦闘となります。右翼一番隊 黒田利高、母里友信、栗山利安、二番隊 井上九郎兵衛左翼一番隊 後藤基次、黒田一成、二番隊 黒田直之、長政は本隊2000人を率いて明軍と対峙、激しい戦闘となりますが、毛利秀元の援軍が背面から明軍を攻撃して敗走させました。


・蔚山城の戦い(うるさんじょうのたたかい)
日本軍は文禄、慶長の役を通じて朝鮮国内に拠点としての城をいくつも築きます(倭城 わじょう)加藤清正、浅野幸長らは蔚山に城を築きますが、完成直前に5万を超える明、朝鮮軍の急襲を受けます。

清正、幸長らは籠城してこれを迎え撃ちますが、総攻撃を何度も受け多くの死傷者を出します。鉄砲の一斉射撃と夜襲による反撃で何とか明、朝鮮軍の攻撃をしのいでいました。

水と兵糧が尽きかけ落城寸前に追い込まれる蔚山城に鍋島直茂、蜂須賀家政、黒田長政、加藤嘉明、毛利秀元らの救援部隊1万3千が到着します。救援部隊到着を知った明、朝鮮軍は兵を引き上げ蔚山城の戦いは終結します。

加藤清正(かとうきよまさ)
*蔚山城の戦いで奮戦した加藤清正(かとうきよまさ)


・泗川の戦い(しせんのたたかい)・鬼島津(おにしまづ)
1598年9月新たに築城した泗川城(しせんじょう)を守る島津軍を、明、朝鮮軍が攻めた戦い。

島津軍8千に対し明、朝鮮軍はおよそ4万の兵(兵数については諸説あり)で攻めますが、島津軍の巧みな戦術に翻弄され大敗を喫します。

島津家の家老が書いた「征韓録 せいかんろく」には、泗川の戦いで敵の首3万8千をあげたと記されています。多少の誇張はあるにしても、相当数の敵を討取ったことは確かであり、明、朝鮮軍は島津軍を「石曼子 シマンズ」「鬼石曼子 オニシマンズ」と呼び大変恐れたとされています。

泗川の戦いにおける島津軍の大勝は日本にも報告されますが、このときすでに秀吉は死去していました。戦後、島津家は功績により4万石を加増されます。

島津義弘(しまづよしひろ)
*鬼島津(おにしまづ)と恐れられた島津義弘(しまづよしひろ)


・露梁海戦(ろりょうかいせん)
1598年10月8日 秀吉死去の知らせが朝鮮半島の日本軍に伝えられます。朝鮮からの撤退を開始する日本軍ですが、小西行長らの部隊が順天城に取り残されるかたちとなります。

行長らを救出するため、島津義弘、立花宗茂、宗義智、寺沢広高、高橋直次は軍船500隻で順天城に向かいますが、露梁津で日本軍を待ち伏せしていた明、朝鮮水軍との間で戦いとなります。日本軍は苦戦を強いられますが、敵将 李舜臣を討取り追撃を振り切ります。

小西行長らは露梁海戦の隙に順天城を脱出し巨済島までたどり着くと、露梁海戦から引きあげてきた島津義弘らの軍勢と合流して日本への帰国を果たすのです。