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関ヶ原の戦いと黒田官兵衛

関ヶ原の戦い 九州の勢力図
*関ヶ原の戦い九州の勢力図

1598年8月18日豊臣秀吉がこの世を去ります。豊臣政権下における石田三成を中心とする奉行衆と福島正則、加藤清正らの武断派の争いは朝鮮の役でさらに悪化をし修正不可能な状況となっていました。


秀吉の軍師として天下統一に貢献した黒田官兵衛(如水)ですが、天下人となった秀吉の豹変と晩年の悪政によりしだいに距離を置くようになります。官兵衛は豊臣政権を見限りしだいに徳川家康に近づくようになると、秀吉の死後はさらにその旗色を鮮明にし、息子 長政と家康の養女 栄姫との婚姻を取り結びます(長政の正室だった蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の娘 糸とは離縁)


1600年6月 家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして討伐軍を編成します。長政は黒田家の主力を率いてこの討伐軍に参加をしますが、7月になると佐和山に蟄居していた石田三成が家康打倒の兵を挙げ毛利輝元を総大将にすえ軍勢を集めるのです。


三成は上杉討伐に参加している諸大名の妻子を人質にすべく大坂の大名屋敷を囲みますが、細川忠興の正室である細川ガラシャが自害!官兵衛の妻光(てる)と長政の妻栄姫は重臣の栗山善助、母里太兵衛の機転で屋敷から脱出して難を逃れます。


三成挙兵の知らせを受けたとき官兵衛は領国の豊前中津に居ましたが、これから起こるであろう大戦に備え準備を始めます。黒田家の主力は長政が率いているため、官兵衛の元にはわずかな留守部隊しか残っていませんでした。官兵衛はまず、城内に蓄えてあった金銀で浪人を雇い訓練を開始します。


徳川家康から九州での軍事行動の自由と領地切り取り自由(奪った領地は自分のものにできる)の承諾を得た官兵衛は、留守部隊と浪人を合わせ4千の軍勢(兵数には諸説あり)で豊後へ侵攻します。

関ヶ原の戦い九州の城(戦国時代の城)
*関ヶ原の戦い九州の城

豊後国は大友宗麟の嫡男 大友義統(おおともよしむね)が治めていましたが、朝鮮の役において敵前逃亡した罪で秀吉の喚起をこうむり領地を没収され追放されていました。その義統が豊臣秀頼から豊後国速見郡を与えられ入国を試みたのです。


この速見郡には細川忠興の城 杵築城がありました。細川忠興の領地は丹後ですが、飛び地として杵築城を与えられ家臣の松井康之を城代においていたのです。大友義統から城を明け渡すよう迫られた松井康之は、同じ東軍についている官兵衛と加藤清正に応援を依頼するとともに城の守りを固めます。


杵築城を救うため豊後に進軍した官兵衛は、石垣原の戦いで義統を打ち破り降伏させます。さらに安岐城、富来城を攻略し降伏した兵を取り込み軍勢はさらに大きくなりました。9月15日に行われた関ヶ原の戦いはわずか一日で決着し東軍徳川家康の勝利に終わります。


家康は官兵衛に対し毛利吉成の小倉城攻めを命じます。官兵衛は小倉城の支城である香春岳城(かわらだけじょう)を攻め降伏させると、次いで小倉城攻めにとりかかります。城主である毛利吉成(毛利勝信)は西軍側についていましたが、官兵衛とはじっこんの仲であったため、官兵衛の勧告を受入れ降伏します(息子 毛利 勝永は伏見城の戦いで功績をあげ、関ヶ原の戦いにも西軍として参戦)


10月4日に小倉城を落とした官兵衛は、筑前国へと軍を進め久留米城を攻撃します。この久留米城攻撃では官兵衛の陣に鍋島直茂の軍が加わります。鍋島直茂は当初西軍についていましたが、途中で東軍に乗り換え久留米城攻撃に参加をしたのです。


久留米城主 毛利秀包(もうりひでかね)は毛利元就の九男です。兄である小早川隆景に実子がいなかったことから養子となりますが、その後秀吉の正室ねねの甥である秀秋が小早川家の養子となっため廃嫡され別家を創設しました。


関ヶ原では西軍側につき大津城の戦いに参加後、領地に戻ることができなかったため、久留米城は留守部隊500人で守っていました。しかし、鍋島軍が加わり大軍となった官兵衛の攻撃を受けあえなく降伏します。


久留米城を開城させた官兵衛は、筑後国に侵攻し立花宗茂の居城柳川城の攻略にとりかかります。立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍につき大津城攻撃に参加をしますが、西軍が敗れると船を使い柳川に帰国していました。


この柳川城攻めには肥後の加藤清正も官兵衛の陣に加わります。清正と長政は入魂の間柄であったため黒田家とは親しくつきあっていました。石田三成が挙兵したとき大坂の屋敷から脱出した加藤清正夫人の乗った船が豊前に漂着した際には官兵衛は夫人を丁重にもてなし清正の領国肥後まで送り届けています。


そんな事情もあり官兵衛と清正は早くから連絡を取り合っていました。清正は西軍についた小西行長の宇土城を攻め落とし官兵衛に合流したのです。


鍋島軍、加藤軍も加わり4万の軍勢を率いた官兵衛に対し、宗茂は抗戦の構えを見せ鍋島軍との間で戦闘が行われます(八院の戦い)が、官兵衛の粘り強い説得に負け開城を決意するのです。


10月21日に柳川城を開城させた官兵衛は、いよいよ薩摩の島津攻めに向かいます。島津氏は当主義弘が西軍側となり関ヶ原本戦に参加をしていましたが、多大な犠牲を出したものの義弘は無事薩摩に戻っていました。


4万を超える軍勢を率いた官兵衛は、九州最強の島津に対し決戦を挑もうとしますが、家康と義弘の間で停戦が結ばれてしまいます。家康は島津攻めの中止を官兵衛に命じます。こうして、官兵衛の関ヶ原は終了するのです。


■関ヶ原の戦い・九州の大名のその後
黒田官兵衛・長政・・・豊前中津12万石から筑前名島52万石に加増され長政が福岡藩主となる(官兵衛は藩祖)
加藤清正・・・肥後半国25万石から肥後一国52万石に加増され熊本藩主となる
細川忠興・・・丹後12万石から豊前33万石に加増され中津藩主となる
寺沢広高・・・肥前唐津8万石から天草領4万石が加増され12万石となり唐津藩主となる
太田一吉・・・豊後臼杵6万5千石を没収
小西行長・・・肥後半国20万石を没収され六条河原で斬首。
毛利吉成・・・豊前小倉6万石を没収され土佐山内家に預かりの身となる
早川長政・・・豊後府内2万石を没収され大坂冬の陣で消息不明となる
毛利秀包・・・筑後久留米7万5千石を没収され病没
島津義弘・・・薩摩、大隅77万石の本領を安堵される。義弘は隠居して嫡男忠恒が薩摩藩主となる
立花宗茂・・・筑後柳川13万石を没収されるが後に本領に復帰して柳川藩11万石の藩主となる
小早川秀秋・・・筑前名島30万石から備前岡山55万石に加増されるも病死小早川家は断絶となる。
大友義統・・・常陸国に流罪後死去。嫡男義乗は徳川家に仕え高家となる
竹中重利・・・豊後高田1万3000石から豊後府内2万石に加増され府内藩主となる
鍋島直茂・・・肥前佐嘉35万石を本領安堵され嫡男勝茂が佐嘉藩主となる(直茂は藩祖)
高橋元種・・・日向延岡5万石を本領安堵され延岡藩主となる
秋月種長・・・日向高鍋3万石を本領安堵され高鍋藩主となる
伊東祐介・・・日向飫肥5万石を本領安堵され飫肥藩主となる
相良頼房・・・肥後人吉2万石を本領安堵され人吉藩主となる