*山本覚馬の次女 山本久栄(やまもとひさえ) 山本久栄(やまもとひさえ)は、父山本覚馬と母小田時栄の長女として誕生します。母違いの姉に山本みねがいます。 久栄が誕生したとき、
*左が伊勢時雄(横井時雄)、一番右の女性が妹のみや(同志社第8代総長海老名弾正の妻) 伊勢時雄(いせときお)は、1857年熊本藩士である父横井小楠の長男として誕生します。時雄
藩主松平容保の京都守護職就任にともない会津藩では1000人を超える藩士が京都に滞在することになります。山本覚馬も妻うらと生まれたばかりの次女みねを残し京都へ旅立ちます。 京都で
新島襄と山本八重の最初の出会いは、襄が身を寄せていた宣教師ゴードン宅でした。ゴードンから「天道遡源 てんどうそげん」を贈られた覚馬はキリスト教の教えに感銘を受け、妹である八重を
*山本覚馬の次女みね 山本みねは、会津藩士である父山本覚馬と母うらの次女(長女は夭折)として1862年に誕生します。母違いの妹に山本久栄(やまもとひさえ)がいます。 藩主松平
新島襄(にいじまじょう)は、安中藩士である新島民治の嫡男として1843年に誕生しました。父民治は、安中藩の祐筆を務め江戸で勤務をしていたため、襄は安中藩の江戸上屋敷内で生まれま
*攻撃を受けた鶴ヶ城 鶴ヶ城籠城戦については、生き残った人たちが貴重な証言を残しています。八重も「婦人世界」「新島八重子刀自の談片」「新島八重子刀自懐古談」でこの戦争について
荒城の月は土井晩翠(どいばんすい)作詞、滝廉太郎(たきれんたろう)作曲による名歌ですが、この荒城の月の詩に影響を与えたものが山本八重の残した歌だという説があります。 山本八重は
伊達政宗を藩祖とする仙台藩は東北随一の石高(62万石)を有する大藩で、幕末時には13代藩主伊達慶邦(だてよしくに)が藩政を取り仕切っていました。会津、庄内両藩討伐のため新政府か
会津藩士の子弟は10歳になると藩校「日新館」に入ることが義務づけられていました。では、10歳までは自由に遊べるのかというとそうではありません。 6歳になると「什(じゅう)」と呼
川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は、1863年11月出石藩の医師の家に生まれました。蘭学を学び江戸では若手の洋学者として名がとおっていたようです。 江戸に遊学していた山本覚馬
山本三郎(やまもとさぶろう)は1848年 父山本権八と母佐久の三男として誕生します。兄の覚馬とは20歳、姉の八重とは3歳離れています。 三郎も他の会津藩子弟と同様に10歳から藩
*山本佐久(やまもとさく) 山本佐久(やまもとさく)は会津藩砲術指南役 山本左兵衛の娘として誕生します。左兵衛は高島流砲術を学び大砲や火縄銃の知識が豊富であったことから会津藩
山本権八(やまもとごんぱち)は、会津藩目付である永岡家の四男として誕生します。永岡家の家督は兄が継いだため山本家の婿養子となります。 永岡家と山本家はご近所どうしで妻となった山
*山本覚馬 山本覚馬は1828年1月11日 会津藩士である父山本権八と母さくの嫡男として誕生します。会津藩士の子弟は10歳になると藩校日新館に通うことが義務付けられており、覚
*山本八重(新島八重) 山本八重は1845年11月3日 父山本権八と母山本さくの三女として誕生します。 八重の兄弟は6人いますが、次女と次男は早世したため成人したのは長男の覚