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山本八重誕生

新島八重(山本八重)
*山本八重(新島八重)


山本八重は1845年11月3日 父山本権八と母山本さくの三女として誕生します。


八重の兄弟は6人いますが、次女と次男は早世したため成人したのは長男の覚馬、三男の三郎、長女と八重の4人でした。長女については名称や経歴が不明です。


長男の覚馬は1828年生まれですから、八重とは17歳差、弟の三郎とは20歳離れています。


八重の生まれた山本家は八重の祖父左兵衛の代から会津藩砲術指南をつとめる家柄で、鉄砲や大砲を藩士に教育、指導する立場にありました。


家格は黒紐席という上士待遇でしたが、家禄は十人扶持という微禄だったようです。ただし、山本家の屋敷があった米代四ノ丁は家禄100石ー200石の藩士たちの屋敷が立ち並ぶ場所であり、山本家も相応の家禄を得ていたという説もあります。


会津藩の軍制は旧態依然としたもので、武士のたしなみは槍と刀であり鉄砲は足軽が扱うものだという考えが根強く、藩校日新館での教育も弓術、馬術、槍術、刀術は必修科目であるのに対し、砲術は希望者のみが受講する科目になっていました。


砲術は低い扱いを受けていたことから山本家の家禄が十人扶持というのは職禄であったのかもしれません。


幼い頃の八重は男勝りの活発な少女で、後年八重が語ったところによると13歳のときに四斗俵を持ち上げることができたそうです。当時の四斗俵が何キロにあたるのか計算はまちまちですが、20ー30キロはあったようです。


そんな活発な少女は砲術指南の家柄ということもあり、幼い頃から鉄砲や大砲に興味があったようです。覚馬が江戸から持ち帰った最新式のスペンサー銃やミニエー銃を使い弟三郎とともに兄から指導を受け腕を磨いていきます。


その腕前はやがて会津戦争で発揮されるのですが、この頃の八重には知る由もありません。幕末から明治へ!時代が大きく動く中、八重もその渦中に巻き込まれていくのです。