山本佐久(やまもとさく)は会津藩砲術指南役 山本左兵衛の娘として誕生します。左兵衛は高島流砲術を学び大砲や火縄銃の知識が豊富であったことから会津藩砲術指南役をつとめるようになります。
左兵衛には跡継ぎとなる男子がいなかったことから、目付の家柄である永岡家の四男繁之助を一人娘である佐久の婿に迎えます。繁之助は山本家の家督を継ぎ権八と改名し、佐久との間に6人の子をもうけます。
佐久はとても聡明な女性で教育にも熱心であったようです。また、自分が良いと思えば新しいことも積極的に取り入れる性格でした。
当時、疱瘡は死の病として恐れられていましたが、疱瘡の予防には種痘が効果的だということを知ると自ら進んでこれを受け八重や三郎にも種痘を受けさせたのです。
会津戦争が始まると八重や家族とともに若松城内に籠城して新政府軍と戦います。夫権八は一ノ堰(いちのせき)の戦いで討死し、三男の三郎も鳥羽伏見の戦いの傷が元で戦死してしまったため、会津藩降伏後は嫡男覚馬のいる京都へ移り住みます。
同志社女子学校が設立されると舎監となり襄と八重をバックアップします。1892年に覚馬が亡くなり、その4年後に佐久は87年(85歳や86歳とする説もあり)の生涯を終えます。