新島襄と結婚!新島八重となる
新島襄と山本八重の最初の出会いは、襄が身を寄せていた宣教師ゴードン宅でした。ゴードンから「天道遡源 てんどうそげん」を贈られた覚馬はキリスト教の教えに感銘を受け、妹である八重をゴードン宅に通わせ聖書を学ばせていたのです。
ゴードンから教えを受けるため邸宅を訪れた八重は、玄関で靴磨きをしている襄と会います。ゴードンが召抱えているボーイだと思った八重は、挨拶もせず中に入ったそうです。ゴードン夫人から襄を紹介され、ボーイではなく日本人の宣教師であることがわかったのす。
八重が女紅場で舎監兼教師として働いていることを聞いた襄は、後日八重の案内で女紅場を見学します。やがて、学校の設立準備のため覚馬の邸宅に居候するようになった襄は、八重に聖書を教えるようになります。
ある夏の日、八重が井戸に板を渡しその上に座って裁縫をしていました。その姿を見た襄は驚き覚馬に「妹さんが危ないことをしている、板が折れたら井戸の中ですぞ!」と話します。それを聞いた覚馬は「妹はどうも大胆なことをして仕方がない」と笑ったそうです。この一件以降、襄は八重を意識するようになります。
襄は、夫に従順に従う日本的な女性を好まず、一定の教養を身につけ家庭内にあってはお互い対等の関係を保てるような人を妻にしたいと考えていました。まさに襄の理想とする女性が目の前にいたのです。
襄は八重に自分の妻になってくれとプロポーズをします。襄の真摯な人柄に惹かれていた八重はこれを受け入れ1875年10月婚約をします。しかし、当時の日本ではキリスト教に対する偏見があり、特に寺町であった京都ではキリスト教は邪教でした。
襄の活動に協力したいとの思いから、八重は女紅場で聖書を配ります。しかし、この行為が問題となり八重は女紅場を解雇されてしまうのです。八重は襄とともに生きていく決心を固め、1876年1月2日に洗礼を受けキリスト教に入信します。翌3日には、洗礼を受けたディヴィズの家で襄と結婚式を挙げ新島八重となったのです(襄32歳、八重30歳)
襄の家族は安中に居たため結婚式には参列することができず、同志社関係者と八重の家族、宣教師などおよそ30名ほどで行われ、茶菓子と飲み物だけの質素な式だったそうです。結婚式にかかった費用は人力車の車夫に払った10銭のみでした。