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小田時栄(おだときえ)

藩主松平容保の京都守護職就任にともない会津藩では1000人を超える藩士が京都に滞在することになります。山本覚馬も妻うらと生まれたばかりの次女みねを残し京都へ旅立ちます。


京都で勃発した禁門の変(蛤御門の変)において、覚馬は大砲隊を率いて目覚しい活躍を見せますが、以前から患っていた眼病が悪化し徐々に視力が低下していきます。


覚馬は藩主容保の許可を得て京都で蘭学塾を開いていました。覚馬の塾には他藩の藩士も学んでいたため知人もたくさんいたのです。


覚馬が懇意にしていた丹波郷士の小田勝太郎は、視力が低下して生活に支障をきたすようになってきた覚馬のために13歳になる自分の妹時栄(ときえ)を世話役として覚馬の元に送ります。


覚馬の目となり献身的に世話をする時栄!いつしかふたりは男女の関係になり娘の久栄が誕生します。京都府顧問となった覚馬は、家族を京都に呼び一緒に生活を始めますが、妻のうらは会津に残り覚馬と離縁することになりました。


うらが京都に行かなかった理由については、覚馬に妾がいることを察知したためとか、年老いた両親の面倒をみるためと言われていますが、本当の理由はよくわかっていません。


うらと離縁した覚馬は1871年(もしくは1872年)に時栄を妻に向かえます。覚馬が京都府顧問として治世に専念することができたのは、時栄や八重、佐久など家族の支えがあったからです。


順風満帆に思えた覚馬と時栄ですが、1885年にある事件が起こります。体調を崩した時栄を医者に診せたところ妊娠が判明したのです!目と身体に障害のある覚馬には身に覚えのないことであり、時栄を問い詰めると18歳の青年との不倫を告白します。


この青年は旧会津藩士の子弟で、将来娘の久栄と結婚させ山本家を継がせるつもりで、覚馬が会津から呼び寄せた人物でした。時栄の不祥事に騒然となる山本家でしたが、覚馬は時栄を許すのです。


家の恥を世間に知られたくないという思いもあったのでしょうが、13歳の頃から献身的に尽くしてくれた時栄への感謝の気持ちも大きかったと思われます。この覚馬の決断に待った!をかけたのが八重とみねでした。


八重は「臭いものに蓋をするようなことはしてはいけない」と主張し、みねと共に時栄を問い詰めとうとう山本家から追い出してしまったのです。八重は、兄を裏切った時栄を許すことができなかったのでしょう。「ならぬことはならぬものです」什の掟(じゅうのおきて)に従ったのでしょうか?もっとも「什の掟」に不倫の項目はありませんが・・・


覚馬と離婚した時栄のその後については詳しい史料がないのでよくわかっていません。実家に戻ったと思われます。時栄の不倫については、熊本バンドのひとりである徳冨蘆花(徳富健次郎)が、小説「黒い眼と茶色の目」の中でこの事件を記したことで世間に知られるようになりました。


徳冨蘆花は、覚馬と時栄の娘である久栄と恋愛関係にあったのですが破局をしています。蘆花の優柔不断な性格が破局の大きな原因なのですが、新島襄と八重に反対されていたことも要因のひとつでした。


そのため。山本家と新島家に対しては複雑な思いがあったのです。事件のあった当時蘆花は京都には居らず、関係者からの伝聞で得た情報のためどこまでが本当で、どこまでがつくり話なのかよくわかっていません。


覚馬と時栄の離婚の原因は、不倫ではなく何か別の理由があったのかもしれませんが、新たな史料が発見されない限り推測の域をでません。