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甲斐武田氏の祖 武田信義(のぶよし)

甲斐武田氏の祖 武田信義系図(たけだのぶよしけいず)
*武田信義系図

武田信義は大治3年(1128年)に源清光の次男として誕生しました。兄の光長(みつなが)と同じ日に誕生したことから双子説もあります。

幼名は竜光丸で、13歳で元服して武田氏を称したため、信義が甲斐武田氏の初代とされています。

なぜ武田を称したかについては、信義の祖父義清が統治していた常陸国武田郷からきているとされていますが、信義が元服をした神社が武田八幡宮であったからとする説や、地名が武田荘(武田郷)であったからだとする説もあります。

信義以降、武田八幡宮は甲斐武田氏の氏神となりました。

治承4年(1180年)平氏追討を命じる以仁王の令旨が諸国の源氏に届けられます。甲斐源氏武田氏にも令旨が届けられたとされています。

伊豆で挙兵した源頼朝は一度は石橋山の戦いで平家に敗れますが、関東の武士を味方につけ鎌倉を制圧します。

頼朝は信義に使者を送り出陣を要請すると、信義はこの要請に応え兵を挙げたのです。頼朝軍と合流した信義は、富士川の戦いで平維盛率いる平家の軍勢を破ります。

甲斐源氏は一ノ谷の戦い壇ノ浦の戦いなどにも参戦して活躍を見せましたが、甲斐源氏の影響力を警戒した頼朝が排斥の動きにでました。

信義の嫡男一条忠頼(いちじょうただより)が殺害され、信義の弟 安田義定(やすだよしさだ)は自害に追い込まれ、義定の子義資(よしすけ)も殺害されます。

信義にも謀反の疑いがかけられたため、起請文を提出して弁明に努めたとされています。

信義は文治2年(1186年)に死去したことになっていますが、没年に関しては異論もあり謎となっています。

家督は五男の信光(のぶみつ)が継ぎました。

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